2010年5月23日日曜日

引き戸を開けると、狭い間口と下駄箱が目に入った。昔は民宿をやっていたが、最近はそこそこ旨い魚が食える店として周知されている小料理屋である。仲居(昼間は女子高生をやっているであろう女である。着物が浮いている)に部屋を案内されていると引き戸が開いた。アベシンゾーが腰を屈めながら何者かを手招きしている。シンタロウだろうかキシノブスケだろうか。現れたのは見覚えの無い老齢の紳士であった。

「それで先日の件ですが」同僚が酒を注ぎながら矢継ぎ早に話を切り出した。勿論こちらとしてもその話をするであろうと準備していたのだが「あれからもう一月経つってのにどうなってるんですか」それほど逼迫した案件だっただろうか「企画の方はどうなっているんですか」あれは言ってみれば寝ていても出来るような、どうでもいい道楽であったはずである「準備は進んでいるんですね」が故に全然進んでない。ひとまずビールを流し込んだ。

「色々考えたんだけど殆どボツでね。一歩踏み出した足を元の位置に戻す、その繰り返し」「ありそうな面白動画みたいなことしてたんですね」「そう。それで思い切ってベルリンまで足を伸ばしてね」「それは英断ですね」「特に何もなかったんだけど」「漫才の草案ですかこれは」「面白くないね」「面白くないです」「そこでね。ちょっと考えたんだけど一歩進もうとするのが良くないんじゃないかって」「へぇ」「にじり寄ればいいんじゃないか」「梅雨ですもんねそろそろ」「そうなんだ。もう梅雨なんだ」「ここカットです。わはははは」こんな風に受け流せばいいだろうか。愚直で真面目一辺倒な彼にこの手が通じるだろうか。一杯目のビールを飲み干した。

「それよりここの酒おかしくないか」「なにがですか」「ビールの瓶3分の1くらいしか酒が入ってないじゃないか!」「あ、そういえばそうですね」「2本頼んで2本ともだぞ!禁酒法下のアメリカでもあるまいし」「炭酸も抜けてますね」「そうなんだ。どう考えてもこれは他の客の飲み残しに改めて蓋をした物を客に出している」「文句いってやりましょう」「勿論だ」事実である。だが彼の目はそんなことはどうでもいいと言って退けるであろう屹然としたものだ。そんなに大したプロジェクトじゃないのに。

「うーん、あの、実は、あの話は会議で決まった翌日には乗り気を失っていたんだよ。色々あるじゃないか最近は機械の扱いも良くわかんないし、利益は確保されているし他にも可能性はあるんだけど、あっちの市場のことって良くわかんないじゃないうちの事業的には。アウェイってこともないだろうけど水に慣れそうもないし見通しが立たないんだよね。」「随分お酒が回っているんですね」「うん。まぁそれほど強くもないし」「今日はこの辺にしましょう」「そうね」いや、彼がこんな切り返しを見せるはずはないのだが。そのまま部屋を出て会計に向かい靴を履こうとすると引き戸が開いてアベシンゾーが腰を屈めながら誰かを手招きしている。シンタロウだろうかキシノブスケだろうか。現れるのは見覚えの無い老齢の紳士である。ここまで具体的なデジャヴが存在するのかと仰天しながら、私は何度目かの昼寝から覚醒した。